2014年3月アーカイブ
かみさんの実家でご飯をごちそうになりました。
女房のお母さんが作ってくれた、チーズを干ガキで包んで揚げたもの。
すごく美味でした。
ご馳走様です!
さて、この日の話題は、夫婦がお互いをどう紹介するべきか。
○夫が妻を紹介する場合、
かみさん、奥さん、家内、妻、嫁さん、女房...。
私は「かみさん」を使っていましたが、「家内」の方がいいだろうとのこと。
なるほど、そうかもしれません。
私の恩師は、「俺のワイフだ」と奥様を紹介してくれた事がありますが、これは独特ですね。
逆に、
○妻が夫を紹介する場合、
旦那、主人、夫、あいつ、あれ...。
こちらも色々呼び方はありますが、「主人」が一般的だろうとのこと。
悩みがひとつ解決できてよかったっす!
今年の正月は、かなり久々に元旦の初売りに出かけました。
行き先は、西武です。
その際に購入した、チーズの福袋に入っていたのが、こちら。
信州北白樺高原長門牧場のブラックペッパーゴーダチーズ(525円)
ビール、ワインに最高のパートナーですね。
大好きな平翠軒さんで購入できるようです。
12(土)
長い日中。翌週リニューアルオープンの飲食店のお客様の事が気になります。
地震発生の際に寄った文房具店で受け取った、メニュー用のカバーを届けなければなりません。
ようやく連絡がつき、お店ではなく八橋に届けました。
この時、秋田市内でも一部電気が復旧している事を確認しましたが、実家も我家も復旧はまだです。
我家から、買い置きしていた電池やら食料やらを実家に運びました。
13(日)
少しずつ、世の中が動き始めた感じです。
震災後は、ガソリンスタンド渋滞も印象的でしたが、この日はまだ、ガソリンスタンドは空いていた記憶があります。
夕方、今晩も電気がない生活を覚悟したときに、
電気がつくよりも早く、おふくろが「ついた!」と声をあげました。
電気復旧。
ものすごく安心した事をハッキリと覚えています。
早速テレビをつけて、そして呆然とする。
太平洋側の壊滅的被害と原発。
日本はとんでもないことになっていました。
後から知った話。
ネットへの投稿です。
「物が散乱しているスーパーで、落ちているものを律義に拾い、そして列に並んでお金を払って買い物をする」
「信号機の消えた交差点で、みんなが譲り合って穏やかに運転。鳴っていたのは御礼のクラクションだけ」
「運転再開した電車で、混んでいるのに妊婦に席を譲るお年寄り」
「サントリーの自販機無料化、softbankWi-Fiスポット解放」
「暗すぎて、今まで見た事がないくらい星がきれいだよ。仙台のみんな、上を向くんだ!」
などなど、
今回の震災からは、日本に生まれて良かったなと心から思える経験もしました。
震災で亡くなられた方のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
言葉もなく車から家に戻る我々。
反射式ストーブを効率的に使うことができる「仏さんの部屋(6畳)」が我々家族のベースキャンプ地となりました。
愛知に住む弟に連絡したいが電話はつながらず、いつ届くかわからないメールを送りました。
携帯の充電が気になり、電源を切りました。
絶え間ない余震の中、特にすることもできる事もないので寝室へ。
寝る事もできない夜がふけ、明けていく。
翌朝、携帯の電源を入れると新潟に住むおじさんからとんでもない数の着信がありました。
連絡をとると、おばさんと娘さんが仙台にいるとのこと。
山形の親戚に連絡をとり、おじさんは仙台に救出に向かう。
それぞれの震災。
電気のない生活。換気扇を使えないため、お湯を沸かすとガス臭い部屋。
ラジオから流れる絶望的な状況。そしてラジオを切る。
つながりにくいipadで、停電の復旧具合をみました。
こんな中で復旧活動をする人。HPを更新する人。必死に働いていらっしゃる姿に頭が下がります。
仕事の事を考えました。日本は、秋田は、我々はどうなってしまうのだろうか?
本当に怖かった。
信号の消えた大渋滞の道を進み、実家に向かいます。
途中のスーパーが激混みであることを目にしたら、衝動的に駐車場に入っていました。
店内は真っ暗で、大混雑。
店員さんは、電卓でお会計をしています。
どうしても早く家に帰りたかった私は、店先で販売していたバナナを3房買って、車に戻りました。
おそらく17時前には実家についたと思われます。
おふくろと三男(犬のマロ)が心配そうに待っていました。
親父は仕事で大仙にいるとのこと。
何度か電話して連絡がつき、秋田市内の状況を報告。無事の帰りを祈りました。
停電対策として、ロウソク、ラジオ、懐中電灯、反射式ストーブなどなどを準備。
成人病医療センターに入院しているばあさんの事も気にしながら、
落ち着いているようで右往左往しているおふくろと私とマロ。
水洗トイレは使えるけれど、換気扇が使えないため臭いがこもる!とか、
ガスは使える!とか、家の中の状況も少しずつわかってきました。
おふくろがガスでご飯を炊き始めたとき、さすがだなぁと感動しました。
親父が帰ってきたのは、家の中ではすでに懐中電灯を使い始めた18時過ぎだったでしょうか。
まずは、家族が揃った事に安心しながら、暗い部屋で味のしない晩飯を食べました。
親父の車についているカーナビでNEWSを確認。
「若林区では、対岸におよそ100人ほどの遺体らしきものが見えているが助けに行けない」
「仙台空港が冠水した」
「陸前高田は壊滅的な被害」
「気仙沼の火災」
とんでもないことになっていて、粗い画面から流れてくる映像が怖くて仕方ありませんでした。
2011年3月11日(金)14時46分
その時私は、某文具店に商品を受け取りに行くため、
竿燈通りを山王十字路から大町に向かって走っていました。
あれ?パンクしたかな?というくらいハンドルがとられ減速。
車も体調も異常はなく、それが地震である事に気がついた時、血の気が引きました。
その数日前に震度5クラスの地震があった時も運転中でしたが、
その時は揺れに気付く事はありませんでしたから、
今回の揺れが相当なものであることは、容易に想像がつきました。
文具店の前に車を停め、踊り狂う電線を見つめ、揺れの中、実家に電話しましたが電波が通じず...。
もしかしたらこのまま終わってしまうのではないか?というくらい長い長い揺れがようやく収まり、
あわてて商品を受け取って、信号の消えた道を会社に向かいました。
その間、実家にいるおふくろとも連絡がつき、早めに帰る事を伝えました。
おふくろは、三男(犬のマロ)をかかえて、カーポートに避難したとのこと。
危ないのかファインプレーなのかわかりませんが、無事で何よりでした。
UPS(無停電電源装置)の電子音が鳴り響く社内で、
普段はあまり使うことのない、携帯電話のワンセグから流れてくる映像に呆然。
初めて聞く「大津波警報」に震えました。
会社は当然、「帰れる人から帰ろう!」ということになりました。
突然、雪が降ってきて、道路は真っ白に。一発だけ雷も鳴りました。
この日、晩飯を食べに行く予定だった、かみさん(この時はまだお付き合いしていません)から、
「今日の予定はキャンセルで。」とのメールが届きました。
「そりゃそうだよな...」と思いつつ、食事への後ろ髪をひかれつつ帰宅を決意。
この時は、まさか、あれほどの被害になるとは考えもしませんでした。